2011/01/01

松井やよりが語ったフィリピンの米軍慰安所





松井やより「女たちのアジア」から。この引用は初刷り(87年)ではなく94年発行の19刷からだが、87年の初刷りから変更がないとすれば、「慰安婦騒動」が始まる前に書かれたものである。(写真は現在のアンヘレスの売春婦たち)  

94年としても、92年の「慰安婦ビッグバン」から二年、松井が慰安所に関わった人間を処罰するとしてアジア女性戦犯法廷を開催する2000年に先立つこと6年である。

この頃から松井は東南アジアにおけるアメリカ軍の買春システム、その施設を「慰安所」と呼んでいたのである。

松井は、貧しいアジアの女性たちが家父長制や植民地主義の犠牲になり性的搾取を受けているとして、米軍も日本軍も区別なく糾弾していたのである。にも関わらず、平気で「性奴隷制を持っていたのはナチスと日本だけ」といったような伝説が作られていくのである。プロパガンダに利用されていたことを松井が知らなかったはずはないが、多くの「良心的日本人」同様、彼女は見て見ぬふりを続けたのである。


タイではベトナム戦争の終結と共に過去のものとなった「基地売春」という深刻な問題を、フィリピンは今もかかえている。オロンガポのスービック米海軍基地アンヘレスの米空軍などだ。83年秋、マニラから北へ約110キロのオロンガポを訪ねた。かつては静かな漁村が、ベトナム戦争中「R&R」、つまり米兵相手の慰安所として栄える基地の町となり、今も、米第七艦隊の母港として機能し、20万人の人口は性産業と基地労働に依存している。

基地ゲートに通じるメインストリート、マグサイサイ通りは両側にナイトクラブやディスコや両替屋が並び、300軒を超える慰安施設一万六、七千人もの女性が働いている。一軒のクラブをのぞくと、16歳から30代の女性60人が、ビキニ姿でかわるがわる舞台で踊っていたが、米艦船が出港したあとなので客は少ない。

舞台からおりてきたベティさん(20)は二人の子持ち、ビサヤ地方から稼ぎに来たという。客の払う300ペソ(3600円)のうち、彼女の取り分は100ペソだが、客のない日はドリンクで、20~30ペソにしかならない。彼女は6000人もの市公認ホステスの一人で、二週間ごとの性病チェックの証明書を見せてくれた。

翌朝、市の社会衛生クリニックをのぞくと、500人もの女性がベンチに並んで順番を待っていた。米兵の性的サービスのために市がホステスを公認し、アメリカ側は、米兵の性病対策のためにこのクリニックを70年に開いた。米比当局がタイアップして基地売春を支えている構図である。

クリニック所長の女医マリアーノ博士は「アメリカ側は性病コントロールを強く求めており、感染率は3、4%に収まっている」と胸を張った。ところが、なんと9歳から14歳までの12人の少女が、悪性の性病にかかって病院に収容されるという事件があった。病院のシスターからの密かな通報で、かけつけたアイルランド人のシェイ・カレン神父が、年若い少女たちの人権侵害にショックを受け、当局の圧力に屈せず少女売春の実態を明るみに出したのだった。

・・・カレン神父は、憤慨した口調で語った。「少女たちはスラムの子どもや孤児などで、シンジケートの手で、米兵相手に売春をさせられ、10~60ペソをもらっていた。幼いものを犠牲にする非道な行為を黙認できず、彼女たちの証言をテープにとり、写真もとった。市長や米軍司令官から発表するなと強い圧力がかかったが、マスコミを通して告発したわけだ」。

・・・このケースも、より若く、フレッシュな少女が売春を強制されたわけで、神父は「こうした少女売春はレイプ、性的暴力と呼ぶべきだ」と、米軍の人権侵害に抗議し続けていた。

ベトナム戦争以来、アジアで有数の売春地帯と化したオロンガポに流れてくる女性たちも、ほとんどが貧しい農村からだ。「外部の都合で発展させられた従属経済の典型例だ」と・・・コロンバ大学のマスリーナ教授は、女性たちの状況をこう分析する。

「固定給なく、休日なく、社会保障なく、団結権なく・・・・・・。不安定きわまりない職場で、つねに性病、中絶、麻薬中毒などと隣り合わせ、社会的蔑視にさらされる。働けるのはせいぜい30代半ばまでで・・・性底辺に沈殿し、娘がいれば売春に出す・・・」